元正天皇の養老3年(718年)に創立された寺で、応永山法華経寺と号し、三論宗であった。
 開基は報恩大師、摩訶上人で、聖武天皇の神亀3年(726年)孝謙天皇の天平勝宝4年(752年)桓武天皇の延暦2年(783年)三朝にわたって帝が健康を害された時、朝廷より召されて参内し、加地修法を行った所その度に健康を回復されたため、報恩太師の号を朝廷がら賜ったと言われる。そして、備前48ケ寺建立の許しを得たので当山を根本建立の道場と定め、勅命山日応寺と改称した。また、桓武天皇は勅使を遣わして彼を嘉賞とも言われ、現在でも勅使屋敷、勅使堂、王御膳所などの呼称が残っている。清和天皇の貞観18年(876年)三論宗を天台宗に改めたが、それから700年余りを経た正親町天皇の永禄2年(1559年)に備前金川城主であった松田左近将監の圧力により、日蓮宗に改宗し山号を勅命山から吉祥山こ改めた。
 その後、明治31年(1898年)に山号を以前に復して勅命山とし現在に至っている。



不動の滝 報恩太師が修行したこいわれている滝で、言い伝えによれば 太師の精誠が天に通じ、不動明王が頭上に天降りになったこいう。その尊像は 4寸2分(約13cm)の石像といわれるが現在は行方不明である。また、吉備津の神官の子として生まれた 栄西禅師も、23歳の頃修行した。(興禅護国論の序に記載)
勅 使 堂 桓武天皇が報恩太師に勅使を遺わした時、勅使が滞在したこいわれる旧跡。 後に堂を建てて勅使明王として、勧請している。
王御膳所 勅使接待のために設けられた食膳を整える館跡で、後に擁護明王として勧請している。現在は石碑があるのみ
勅 使 道 王御膳所がら勅使堂に至る道で、専ら勅使に食事を運んだ道。王御膳所の近くに 小屋口という地名があるが、勅使の供奉する人が滞在するために小屋を建てた跡と伝えられている。



現在は、山門・鐘楼門・本堂・番神堂・客殿・太鼓堂・庫裡・位牌堂・収蔵庫などがある。
番 神 堂 岡山県指定重要文化財(建造物)に指定されており、桃山時代の様式を残した江戸時代初期の建造物。 単層入母屋作りで寺の守護神といわれる三十番神が祭られている。昭和57年に解体修理された。
本   堂 はっきりとした建築年代は不明であるが、江戸時代中・後期頃のものと思われる。 本堂前面軒下の欄間彫刻や天井絵は必見の価値がある。



国指定重要文化財

昆沙門天王立像(像高177cm)
不動明王立像(像高160cm)

(昭和54年6月6日指定)

この2体の仏像は鎌倉時代の作と見られ、奈良の子島寺にあったものを譲り受けたといわれている。また、行基の作といわれており、槍の寄せ木造り、正眼(ぎょくがん)入り、全身を布張りにし、彩色で仕上げられている。細部の彫りのタッチも鋭く、全国的にも有名な仏像である。現在は、収蔵庫(昭和56年完成)に収蔵されているが、それまでは番神堂に祭られていた。

県指定重要文化財 梵   鐘
(昭和34年3月27日指定)
『銘千体大工知行永三季歳次丁巳十月 日』と刻まれている

番 神 堂
(昭和54年5月18日指定)

その他、番神堂横の墓所に、南北朝時代の作と思われる宝きょう印塔、勅使堂横には 室町時代中期の造立と考えられる一石五輪塔群などが現存している。



【勅命山日応寺の主たる法要日程】
春季彼岸施餓鬼法要 3月彼岸中日   詞堂家先祖供養法要 5月3日
清正公大祭 7月24日   盂蘭盆会施餓鬼法要 8月16日
秋季彼岸施餓鬼法要 9月彼岸中日   宗祖御会式 11月21日
像師会 12月19日      

岡山市北区日応寺302番地
TEL 086-294-2631

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